令和2年10月24日(土)、柳田米敏氏が「神武東征後の『智保・知保郷』はどうなったか」と題して講演をされた。
同氏は、天孫降臨の地は西臼杵高千穂町と強く主張されている。そもそも「欠史八代」など、神武天皇から八代の天皇は実在しなかったとして、古事記の記述を軽侮する向きもある。
しかし、同氏は、古事記、日本書紀、風土記、大日本史(徳川光圀)や地域伝承、神社の来歴などの資料を徹底的に調査されていた。奈良県橿原に都を開かれた神武天皇が、その子や孫(タケイワタツノミコトー健磐龍命)を故郷の高千穂に戻され、地域の安定・発展に尽力された物語がドラマチックに語られた。熊本阿蘇神社の御祭神が健磐龍命であり、その子孫が宮司を務め、百代近く続いている。
元々「大高千穂」と呼ばれる領域は、阿蘇や大分にも及ぶ、南の霧島山高千穂峰地域には、神武東征後の伝承地が無く物語の連続性において信憑性が薄い。延岡の愛宕山は、元々「笠沙岬」(カササノミサキ)と呼ばれ、ニニギノミコトとコノハナサクヤヒメの出会いの聖地として伝承され、考古学的にも傍証できる。神武天皇の故郷の地、高千穂延岡の確信を深めたいものだ。